魏志倭人伝を読み解いてみよう

まず、卑弥呼時代より数百年前から奴国は中国に朝貢していたのはわかってるので

倭と中国のルートは確立していたでしょう。

 

帯方→末羅の準構造船はこんな感じ

もしくはもっと大きい帆船

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最初に、定説にされてしまってる糸島=伊都、博多=奴国は

間違ってると私は思います。 
まず、上陸地点が唐津というのは地形的に見てもありえないと思われる。
唐津に上陸した後、方角には目をつぶっても
唐津→糸島を陸行するのって

あの場所って当時は岩むき出しの断崖絶壁の海岸沿いを行くのは不可能で、けっこう険しい山を越えるしかなかった。
船で糸島まで行ったほうが断然早くて安全で

数百年間何度も往来してるはずなのに明らかに超不自然ですね

 

伊都国=糸島、奴国=博多の概念のために
ただ距離を合わせるために帳尻合わせで唐津に上陸させてるだけである。
奴国はすでに何度か朝貢してるし、ルートは確立してるはずなんです。
自分たちが長年住んでる地で地形も方角もわかってて当然です。
まだ北九州上陸→行橋→豊前→宇佐ルートのほうが自然

 

そこで博多湾上陸させて考えてみてもその先が繋がらない

 

考えた結果、上陸地点は
地形的にも上陸するのに最適な入江のある伊万里湾にしてみます。
伊万里湾だと唐津だと近かった1000里の距離も合いそうです。
山海に沿って住むという情景にも合致します。

 

末羅(4000戸)の伊万里から東南500里伊都国(1000戸)は武雄

 

伊都国を武雄にしたのは理由があります。

一大率の伊都国は守備の要の地。四方を山に囲まれて、かつ奴国や投馬国、邪馬台国に行くのに必ず通らないといけない要所である必要性があります。

 

糸島に一大率を置いても、攻めるほうからは無視できるし

糸島は守るべき要所でもなんでもない地で地理的、地形的にも一大率がある地ではない

糸島に兵を置いても博多や筑紫を守れないのは素人目にも明らかなのに

何故だれも言わないのか。

 

次に奴国だけ行という字を使ってないのでスルーしたのかもしれません。
行ってなさそうな東南100里の奴国(20000戸)は白石町~佐賀市
徐福伝説のある地域ですね~
古くから不老長寿の素である海苔(ヌラ)のクニから奴国

 

伊都→不弥の行程で考えると東100里が不弥国(1000家族)は大町町
大町町から有明海に出ます

 

南水行20日の先は玉名にしてみます
投馬国(タマコク)→タマノクニ→タマナクニと自分で想像してみました
(妄想楽しいです)


倭船は時速2~4キロくらいで夜は出さないそうです。

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天候、風の影響も大きいです。
卑弥呼時代の倭船は準構造船か丸木舟かもハッキリわかってないですし、

 まず、なぜ水行20日を片道計算しかしないのか?

 逆に往復してるのは当たり前じゃんと私は思います。


 従者の人数、兵士の人数は数百、数千人はいたと思われます。
 プラス荷物、連れてきた動物、お土産多すぎて倭船の数なんて

 一つの港に何百艘もなかったと思われるので
 何度か往復した可能性も十分ありえると思います。
 魏船は準構造船もしくは帆船であったでしょう。
 もっと昔の始皇帝時代の徐福さんも出発時は3000人連れていたみたいです。)

 

投馬国(50000戸)は玉名
玉名から水行10日で熊本市湾岸

 

邪馬壹国(70000戸)は山都町
だと12000里の距離、水行10日+陸行1月の日数もしっくりきます
もちろん熊本平野から山都町にかけての地


地名なんて不確かだろうなと思ってたら
結局、玉名と山都の地名が似ちゃいました
伊都国が糸島、奴国が福岡という誰が言い出したのかわからない定説を無視できたら
いいんでしょうけどね
戸数はその頃の弥生人が千、万という数字の概念があったとは思われませんので
使者さんが見て判断したと思われます。

 


日本最古の神社とも言われてる
幣立神宮があります。別名 日の宮

(なぜかあまり注目されてないですけど

 創建されたのが一説には15000年前であったり

 あまりに大昔すぎてわからない部分もあるみたい。)

 主祭神 神漏岐命、神漏美命

 その下に

 天御中主神

 万物の親神「大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)」が唯一ここに祀られてたり、

 その下にやっと天照大神が祀られていたり

 神宮なのに認知度低いし、

 神宮なのに24社あると言われてる中に入ってなかったりと

 ここって伊勢神宮より格上なん?とか謎が多すぎるくらい

 謎だらけなんですけど、

 この神宮なかなかすごいみたいです。
 (卑弥呼がここにいたのではないかと思わせる神域です。

  神秘的なパワースポットみたいですね。)


ルート繋げてみると

 

https://i.imgur.com/LCmXawg.jpg

 

 

 伊万里湾上陸(末羅)→武雄(伊都)→大町(不弥)→玉名(投馬)

 

→熊本沿岸→山都(邪馬壹)

 

山都町を目的地にすると
ゴールに向けてこれ以外ないルートで来てます。
(伊都国からの距離1500里も地図上では納得、 
 総距離も方角も完璧すぎて、これが正解なら魏の測量技術すごすぎます。
 いつか攻める気でゆっくり測りながら来たのか?
 もちろんそういうのもあるでしょう。相手を知るのは重要ですから)


このルートだと、なぜ上陸後に水行があるのかの理由も納得できる。
南の狗奴国が宮崎&(or)鹿児島とすると位置もばっちり
支配地域が有明海沿岸の筑紫平野~久留米~熊本平野なら完璧ですね

 

邪馬壹国の国民は熊本平野に住んでいて
卑弥呼は少し離れた神秘の地にいたとしたら神秘性も増すし
誰とも会わなかったという記述も理解できます

 この山都町付近に卑弥呼が眠っているとしたら

探し出すのは容易ではないでしょうね

 

帯方→熊本でも半年はかかってそうなので往復1年ですか。

大変な道のりです。

(2、3、4回目となると魏船の技術盗んでもう少し早かったかもですね。)

これは地名や定説などの先入観いれないで

ただ地図を見て考察しただけの憶測にしかすぎません。

 

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
(女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、
其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、

詳(つまびらか)に得ることができない。)
これは出雲のことを言ってるのか?

 北九州や出雲は戦争や虐殺の跡が残ってるみたいです。

 

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この地図のまんまな結果になりました。

 

 あきらかにこの土地に一大国家があったのは疑いようのない事実であり、
5、6、7世紀の出土品も多数あることを考えると
その時代までは繁栄していたこともわかります。
王の象徴として代々受け継がれていたとしたら当然なのでは。