古事記
今回はさらに妄想全開でいきます。
(一人?もしくは記憶力のいい集団?役職?)に命じて
地方に存在する逸話や伝承、言い伝えをまとめあげさせて、
それを口伝えに聞いた太安万侶が編纂したものが古事記とされてます。
この時点で古事記って1300年前の人たちが大昔はこんなすごい人いたんだってよ~という物語を集めた感じなんです。
ここまでは妄想ではないです。
やはり怪しいのは
幣立神宮の主祭神である神漏岐命(カムロギ)と神漏美命(カムロミ)
人が争いをやめないので天之御中主之命が遣わした2柱が
地上に降り立った御姿が伊邪那岐、伊邪那美とされてる話もあります。
15000年前の創建とも言われてますが
さすがにそんな昔に神という概念があったのかと疑いもありますし、謎です。
15000年と言われる樹齢の御神木の檜からきてるのかもしれません。
武雄の黒髪神社の上宮は崇神天皇が2000年前(崇神16年)に創建したと言われています。
伊邪那岐が黄泉の国から逃げ帰った地とも言われてます。
とすると壮大な妄想ですが
大陸から逃げ帰ったという言い伝えであったかもしれません。
下界は3王に任せてたとあります。
もしかしたらこんな感じだったかも
自身は神聖な地 高台の山都 高天原
邪馬台国の平民の住む地 スサを弟に
一大率のある伊都国の王
筑紫平野の王
というふうに。
魏志倭人伝を読み解いてみよう
まず、卑弥呼時代より数百年前から奴国は中国に朝貢していたのはわかってるので
倭と中国のルートは確立していたでしょう。
帯方→末羅の準構造船はこんな感じ
もしくはもっと大きい帆船
最初に、定説にされてしまってる糸島=伊都、博多=奴国は
間違ってると私は思います。
まず、上陸地点が唐津というのは地形的に見てもありえないと思われる。
唐津に上陸した後、方角には目をつぶっても
唐津→糸島を陸行するのって
あの場所って当時は岩むき出しの断崖絶壁の海岸沿いを行くのは不可能で、けっこう険しい山を越えるしかなかった。
船で糸島まで行ったほうが断然早くて安全で
数百年間何度も往来してるはずなのに明らかに超不自然ですね
伊都国=糸島、奴国=博多の概念のために
ただ距離を合わせるために帳尻合わせで唐津に上陸させてるだけである。
奴国はすでに何度か朝貢してるし、ルートは確立してるはずなんです。
自分たちが長年住んでる地で地形も方角もわかってて当然です。
まだ北九州上陸→行橋→豊前→宇佐ルートのほうが自然
そこで博多湾上陸させて考えてみてもその先が繋がらない
考えた結果、上陸地点は
地形的にも上陸するのに最適な入江のある伊万里湾にしてみます。
伊万里湾だと唐津だと近かった1000里の距離も合いそうです。
山海に沿って住むという情景にも合致します。
末羅(4000戸)の伊万里から東南500里伊都国(1000戸)は武雄
伊都国を武雄にしたのは理由があります。
一大率の伊都国は守備の要の地。四方を山に囲まれて、かつ奴国や投馬国、邪馬台国に行くのに必ず通らないといけない要所である必要性があります。
糸島に一大率を置いても、攻めるほうからは無視できるし
糸島は守るべき要所でもなんでもない地で地理的、地形的にも一大率がある地ではない
糸島に兵を置いても博多や筑紫を守れないのは素人目にも明らかなのに
何故だれも言わないのか。
次に奴国だけ行という字を使ってないのでスルーしたのかもしれません。
行ってなさそうな東南100里の奴国(20000戸)は白石町~佐賀市南
徐福伝説のある地域ですね~
古くから不老長寿の素である海苔(ヌラ)のクニから奴国
伊都→不弥の行程で考えると東100里が不弥国(1000家族)は大町町
大町町から有明海に出ます
南水行20日の先は玉名にしてみます
投馬国(タマコク)→タマノクニ→タマナクニと自分で想像してみました
(妄想楽しいです)
倭船は時速2~4キロくらいで夜は出さないそうです。
天候、風の影響も大きいです。
(卑弥呼時代の倭船は準構造船か丸木舟かもハッキリわかってないですし、
まず、なぜ水行20日を片道計算しかしないのか?
逆に往復してるのは当たり前じゃんと私は思います。
従者の人数、兵士の人数は数百、数千人はいたと思われます。
プラス荷物、連れてきた動物、お土産多すぎて倭船の数なんて
一つの港に何百艘もなかったと思われるので
何度か往復した可能性も十分ありえると思います。
魏船は準構造船もしくは帆船であったでしょう。
もっと昔の始皇帝時代の徐福さんも出発時は3000人連れていたみたいです。)
投馬国(50000戸)は玉名
玉名から水行10日で熊本市湾岸
邪馬壹国(70000戸)は山都町
だと12000里の距離、水行10日+陸行1月の日数もしっくりきます
もちろん熊本平野から山都町にかけての地
地名なんて不確かだろうなと思ってたら
結局、玉名と山都の地名が似ちゃいました
伊都国が糸島、奴国が福岡という誰が言い出したのかわからない定説を無視できたら
いいんでしょうけどね
戸数はその頃の弥生人が千、万という数字の概念があったとは思われませんので
使者さんが見て判断したと思われます。
日本最古の神社とも言われてる
幣立神宮があります。別名 日の宮
(なぜかあまり注目されてないですけど
創建されたのが一説には15000年前であったり
あまりに大昔すぎてわからない部分もあるみたい。)
主祭神 神漏岐命、神漏美命
その下に
万物の親神「大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)」が唯一ここに祀られてたり、
その下にやっと天照大神が祀られていたり
神宮なのに認知度低いし、
神宮なのに24社あると言われてる中に入ってなかったりと
ここって伊勢神宮より格上なん?とか謎が多すぎるくらい
謎だらけなんですけど、
この神宮なかなかすごいみたいです。
(卑弥呼がここにいたのではないかと思わせる神域です。
神秘的なパワースポットみたいですね。)
ルート繋げてみると
伊万里湾上陸(末羅)→武雄(伊都)→大町(不弥)→玉名(投馬)
→熊本沿岸→山都(邪馬壹)
山都町を目的地にすると
ゴールに向けてこれ以外ないルートで来てます。
(伊都国からの距離1500里も地図上では納得、
総距離も方角も完璧すぎて、これが正解なら魏の測量技術すごすぎます。
いつか攻める気でゆっくり測りながら来たのか?
もちろんそういうのもあるでしょう。相手を知るのは重要ですから)
このルートだと、なぜ上陸後に水行があるのかの理由も納得できる。
南の狗奴国が宮崎&(or)鹿児島とすると位置もばっちり
支配地域が有明海沿岸の筑紫平野~久留米~熊本平野なら完璧ですね
邪馬壹国の国民は熊本平野に住んでいて
卑弥呼は少し離れた神秘の地にいたとしたら神秘性も増すし
誰とも会わなかったという記述も理解できます
探し出すのは容易ではないでしょうね
帯方→熊本でも半年はかかってそうなので往復1年ですか。
大変な道のりです。
(2、3、4回目となると魏船の技術盗んでもう少し早かったかもですね。)
これは地名や定説などの先入観いれないで
ただ地図を見て考察しただけの憶測にしかすぎません。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
(女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、
其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、
詳(つまびらか)に得ることができない。)
これは出雲のことを言ってるのか?
北九州や出雲は戦争や虐殺の跡が残ってるみたいです。
この地図のまんまな結果になりました。
あきらかにこの土地に一大国家があったのは疑いようのない事実であり、
5、6、7世紀の出土品も多数あることを考えると
その時代までは繁栄していたこともわかります。
王の象徴として代々受け継がれていたとしたら当然なのでは。
邪馬壹国論争は畿内説で決着していいのか?
クソ素人が思ったことをただ書き込んだものです。
なので素人感満載です。
☆畿内説は世界の歴史、理を無視したファンタジー満載な説
・畿内説の矛盾、疑問点
①畿内説は基本、中国文献(魏志倭人伝)他、を嘘だらけ、
信憑性がないと言って無視してるのに
なぜ邪馬壹国だけはあった、卑弥呼だけはいたと言うのか。
邪馬壹国はなかった、卑弥呼なんていなかったと畿内説派は
統一したほうがすっきりする。
・畿内説の通り奈良に邪馬壹国があったとします
②魏船で来て伊都国や奴国を回ってます。
え、また船乗るの?それも倭船?なぜ魏船で直接行かないのでしょう?
荷物を何里も徒歩で運ばされて積み替えさせられて、魏の使者さん怒りますよ。
奈良目指してるのに歩いて伊都国や奴国に寄る必要ありますか?
使者さんは目的地はっきりわかって来てるんですよ。
もし、上陸後に水行したとしても河川じゃないでしょうか?
もしくは水行が必然性のある内海。
(帯方から総日数が邪馬壹国まで水行10日、陸行1月かかった。(行き)
投馬国(イヅモ?)まで水行20日かかった。(帰りor別師団)
ここだけ日数なのはそういう意味なのでは?
どちらも南至というのは帯方スタートなら当然だし
正確性を求めるために総日数を付け加えた?というか必然的?
逆に総距離書いて、より大事な総日数書かないとかあるのか?
陳寿さんは「どこに寄ったとかどうでもいいから
結局、邪馬壹国まで総日程って何日かかった?」と聞いて
使者さんはもちろん報告してたと思われる。
むしろ一番大事な「全部で何日かかったの?」を聞いてないわけない。)
な~んて思ってた時もありました。(笑)
現実的に考えて帯方→糸島付近まで弥生時代の準構造船で10日で来るなんて
不可能みたいです。
今でもわからなくて四苦八苦してる状況で、渡航可能な準構造船が造れないくらい。
野生号なる準構造船が47日で渡航したのも疑わしいみたい。
③4回ほど魏の使者さん来られてるみたいです。
手ぶらなんて魏さんがするわけないし、
威厳を示す絶好のチャンス。
当然それなりのお土産は持参してこられてるでしょうね。
道中、倭の人々にもドヤ顔で魏の力を見せつけれます。
伊都国までしか来てないよというのはありえないでしょう。
そんな使者は世界中探してもいないよね?
(奴国だけ行くという字がないので行ってない可能性もあります)
やはり直接拝謁したと考えるのが普通でしょ。お土産もありますし。
珍しいものや武器などお買い物してたりすることもあるかもね。
それほど積める船がそもそもなかったと考えられる。
④九州、中国、四国、近畿は卑弥呼の生前、死後と何年も統治していた。
それほどの大規模の国家でかなり確立した法がないとは考えられない。
つまり文字がないとは考えられない。
文字も法もなく、それほどの国家を統治してたとなると
世界の歴史から見ても日本の起源だけずれてくる。
⑤九州を支配下にしてたとすると
戦闘力で劣るのに、どうやって鉄器を持ってる九州相手に戦争で勝ったのか?
剣で銃に挑むようなもの。これも世界史に反する。
手から稲妻でも出せる魔法使い軍団でもいたのか?
力で統治してたとしてどうやって統治してたのか?かなり難しいです。
以北も統治することは可能って畿内説は北=東ってことは
上海制圧可能って言ってるの?畿内論の邪馬壹国ってすげーな
⑥卑弥呼が奈良にいたとして九州、四国の情勢を祈祷で占います。
伝聞するのに何か月かかりますか?
威厳なんてあるわけない。
⑦九州、中国、四国を統治してたのだからかなりの交流があったのは当然。
当然道も整備されてて
船もいっぱいあって人も荷物もいっぱい積んでても瀬戸内の荒波、日本海も余裕です。
航海術は優れたものがあったのでしょう。
なんなら朝鮮、中国大陸も余裕っすよ。
・狗奴国の存在
⑧狗奴国とは戦争状態で度々脅かされてたみたいです。
邪馬壹国と同レベルの国家だったと簡単に想像できます。
東海、関東、北陸の連合国レベルか?
狗奴国はもちろん鉄器も所有してるでしょう。
戦争状態だったので激しい戦いの後があるはず。
纏向は防衛に重きを置いてない都市みたいですね。
みんなおいで、どうぞどうぞの開放状態都市
(これもわずか数年前まで何十年も倭国大乱ありましたという不思議)
纏向は邪馬台国の端っこで、すぐ目と鼻の先に敵国狗奴あるのにマジですか?
纏向の人はサイヤ人だったのか?
⑨纏向そんな状態(防衛力0)で背後の狗奴国を無視して
都あけて中国、四国、九州制圧に出かける。
信長、秀吉でも不可能です。
そこで魏志倭人伝なんてファンタジーだから狗奴国なんてなかった。
魏志倭人伝なんて信じられないわなんて言うと
邪馬壹国なんてなかった、卑弥呼なんていねーよと言ってるようなもので
畿内説は自らがファンタジーと言ってる。
都合がいいように事実を捻じ曲げてたらそれはもう歴史ではない。
物語でファンタジーです。
続くかもしれない